よしなが酒店クロニクル ヒロインは未亡人(10才)

2013年11月、小学生の高木亨の元に金色の錠前が届く。それは1985年への扉を開く道具だった。

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 その不機嫌そうな目を、一文字に結んだ口元を、どこかで見たことがあるような気がした。
 サユは僕の言葉に納得したのか、ヨーヨーを巧みに操りながらジャングルジムの方へ歩いて行く。
「オーちゃん、続きやんないの?」
 ぼんやりと彼女の背中を見送っていたオーちゃんは我に返り
「ショーグンと呼べってば」
 と、ぶつぶつ言いながら、僕に木登りを教えてくれる。

「わあ」
 押されたり引かれたりしながらようやく登った樹の上は、なかなか悪くなかった。
「これでトールも仲間だ」
 オーちゃんが一握りのどんぐりをくれる。なんだか生暖かいそれを、僕はパーカーのポケットにしまう。
 他の子供たちはもっと上に登ってしまった。僕が立っているのは一番下の枝だけど、それでも黄金色の葉陰から、小さな公園が一望できる。

 僕の横に立っていたオーちゃんがジャングルジムを睨んでいる。さっきまでてっぺんにいた眼鏡の少年が、ジャングルジムにもたれかかってサユと話している。
 僕はひとつの確信を持ってオーちゃんに質問する。
「あの子、長澤早百合?」
「なんでサユのこと知ってんの」
 オーちゃんはちょっとだけ不思議そうな顔をする。
 間違いない。あの女の子は長澤早百合、つまりは旧姓の吉永さんだ。

 クヌギ軍のメンバー全員で、よしなが酒店に行った。
「またビックリマンチョコか、くそガキ」
 カウンターの中には、吉永さんより少し年上くらいのおじさんがいる。
「うっせー、くそじじじい」
 オーちゃんの言葉に、おじさんはげんこつをふりあげるポーズをとる。
「トールは買わないの?」
「うーん……」
 僕は駄菓子の並べられた棚を眺める。みんながこぞって買っているウエハースチョコレートが三十円。随分と安い。
「これ下さい」
 財布から取り出した百円玉でそれを買う。僕は七十円のお釣りを受け取る
「ん?」
 おじさんがレジの中の小銭を見て訝しげな顔をする。顔を上げて僕のことをちょっとだけ睨み、それからなにごともなかったかのようにレジを閉めた。

「俺も買お」
「つまみにチョコレートかよ」
 店内で酒を飲んでいた大人の一人が、ウエハースチョコを買う。子供たちが集まってくる。
「うわ、スーパーデビルだ!」
「おっちゃんそれちょうだい!」
 開封した菓子の中身を見て、オーちゃんたちともう一人の子が同時に叫ぶ。

 ウエハースチョコレートのおまけについている、キラキラしたシール。
「じゃあ、おまえたちそこで相撲をとれ。買った方にこれをやろう」
 酔って頬を赤くした男性が、シールを掲げる。
「よし! リュウタ来い」
「手加減しないからな、オーちゃん」

 二人はよしなが酒店の前で相撲をとりはじめた。裏通りとはいえ、車道で遊んでも叱る大人は一人もいない。それどころか見物しはやし立てている始末だ。
「やったー!」
 結局、勝者はオーちゃんだった。みんなの歓声があがる。いつの間にか公園から女の子たちも出てきて、勝負の行く末を見守っていた。

 遠巻きにこちらを見ていた女子の中に、長澤早百合もいた。呆れたように腕組みをして、でもちょっとだけ楽しそうな表情。
 僕の知っている吉永さん、すなわち旧姓長澤さんは、未亡人で、おそらく四十歳前後で、よしなが酒店のカウンターの中にいて、いつも不機嫌そうで。
 僕はポケットからあの錠前を取り出す。数字のダイヤルは『1985』に合わせられている。
「一九八五……年?」
 喧嘩する子供たちと、それを酒の肴にする大人たちと。よしなが酒店の前はとても賑やかだった。

 夕焼け色だった空が深い青になっていく。自動販売機の明かりが真鍮の錠前を照らす。
「一九八六、一九八七……」
 オーちゃんたちの声を背中に聞きながら、僕は数字のダイヤルを回していく。ロックは開かない。
「……二〇一二、二〇一三」
 かちり、と金属音がする。

 真っ白な光が景色を包む。
 目を開けると、自動販売機と電柱の間に大きな裂け目ができていた。
「おまえらそろそろ帰れよ」
 後ろから大人たちの声がする。それからサユの声も。
 光に吸い込まれるように、一歩踏み出す。
(まだ帰りたくない)
 そう思いながらも僕の体は空間に出現した裂け目を通り抜ける。

「いたっ」
 コンクリートの塀におでこをぶつける。振り返るとそこには電柱があった。
「うわ、びっくりした!」
 自動販売機の前に立っていたオオオカさんだかオジロさんだかが声をあげる。
「亨じゃん、なにやってんのそんなところで」
 僕はまだぼんやりと電柱の後ろに立っていた。

 空はさっきまでと同じ濃さだった。だけどよしなが酒店の前はしんとしていて、オザキさんだかオダジマさんだかがぽつりと立っている。
「そっちこそなにやってんのそんなところで」
「長澤に追い出された」
 片手に持った飲みかけのカップ酒を小さく持ち上げる。

 こっそりとよしなが酒店を覗く。吉永さんがカウンターに頬杖をついている。薄暗い店内で黄色味を帯びた電灯が彼女を照らしていた。
 僕は自分がどこにいるのか分からなくなってくる。

「吉永さんの旦那さんって、いつ亡くなったの」
「吉永か」
 オミネさんだかオグロさんだかは随分と酔っているようだった。不快そうな表情で赤くなった頬を掻く。
「亨が二歳か三歳くらいの頃だよ。覚えてないか。お前も通夜に来たんだぞ」
 覚えていなかった。僕が物心ついた頃には、よしなが酒店への出入りは禁止されていた。
「吉永だけは絶対に許せねえ。長澤を置いていきやがって」
 彼は相変わらず吉永さんのことを旧姓で呼ぶ。
「あの時に俺が勝っていたら、吉永なんかに長澤を渡さなかったのに」
「あの時?」
 彼がまた頬骨を掻く。よく見ると右目の少し下あたりに薄い傷跡があった。

 大人は酒を飲むとどうして饒舌になるのだろう。自動販売機の前でカップ酒を飲みながら、オシオさんだかオノヤマさんだかが僕に語る。
「長澤を賭けたんだ」
 彼は小声で教えてくれる。
「俺たちが亨くらいの頃、俺と吉永はそれぞれの派閥を持っていた」
「派閥」
「俺たちは友達だったし、本気でいがみ合っているわけじゃなった。放課後だけの他愛ないゲームだったんだよ。吉永が言ったんだ。長澤を賭けようってな」
 その話は、さっき起こった出来事のように、もしくはこれから起こる出来事のように聞こえた。
「表向きはおもちゃやシールなんかのガラクタを賭けて、俺たちは戦ったんだ。そんで俺が負けた」
 彼はまた頬を擦る。酔いのせいか頬骨のあたりにある傷跡が赤く浮きだして見える。
「それで吉永さんと吉永さんの旦那さんは結婚したの?」
「俺は長澤に想いを伝えなかった。負けたからな」
「大人になってからも?」
「ああ」
 彼は子供の頃の約束を律儀に守ったのだ。
「もし勝っていたら、吉永さんにプロポーズした?」
 プロポーズ、という言葉に驚いたのか、彼は飲んでいたカップ酒を吹き出す。
「したよ」
 作業着の袖で口元を拭いながら、彼は楽しそうに笑った。

 家に帰ると、もう父も母も帰宅していた。
「遅かったじゃないの。どうしたのそんなに汚して」
 母に叱られる。時計は六時過ぎを指していた。木屑や泥で汚れたパーカーを無理矢理脱がされる。
「いいじゃないか、子供は遊ぶのが仕事だ」
 父は台所で夕食の配膳を手伝っている。

「なにこれ!」
 洗濯機の前で、母が大きな声を出す。
「あ、どんぐりとか……」
 パーカーのポケットに入っていたたくさんのどんぐりと、ウエハースチョコレートと、錠前を僕は受け取る。
「ビックリマンチョコじゃないか。懐かしいなあ」
 父が僕の手のひらを覗きこむ。
「お父さん、知ってるの」
「子供の頃すごく流行ってたよ。まだ売ってたのか。今、シールどんなのだ?」
 父に促されて、僕はウエハースチョコレートを開封する。母が「夕ごはん前なのに」と父に文句を言っている。
「スーパーゼウスだ!」
 父が嬉しそうにシールを手にとる。
「これすごいの?」
「ヘッドシールだよ。レアなんだぞ」
「へえ」
 レアと言われてなんとなく嬉しくなってくる。訝しげに覗きこんでいた母が「ちょっと見せて」と、パッケージを取り上げる。
「亨、これをどこで買ったの?」
 パッケージの裏面を睨んでいた母の声が、静かに怒っている。

「えっと、ファミマで買った」
 母はウエハースチョコレートを持ったまま僕を見下ろしている。
「よしながで買ったんでしょう」
「どうしたんだ?」
 なだめるように尋ねる父に、母はパッケージを突きつける。
「見てよこれ、二十年以上も前に賞味期限が切れてるのよ。こんなのコンビニで売るはずないじゃない!」
「まさか」
 笑いながらパッケージを受け取った父が「ほんとだ」と目を丸くする。
「復刻版なんじゃないの。二十世紀に作られた菓子が、こんなにきれいな状態で残ってないだろ」
「ちょっと、食べちゃダメ!」
「うまいよフツーに。腐ってないよ」
 のんきにウエハースをかじる父に、母は頭を抱える。

 結局ウエハースチョコレートは取り上げられてしまった。レアだというシールだけはこっそりズボンのポケットに入れた。
 僕は夕食のしょうが焼きを食べながらぼんやりと考える。
「よしながに聞いてこなくちゃ」
「やめとけよ」
 母はまだ怒っている。僕は確かによしなが酒店で菓子を買った。だけど吉永さんのいるよしなが酒店ではない。
 これは僕の夢で、まだ夢は続いているのかも知れない。

 サユの夢を見ていた。公園の真ん中に不機嫌な顔でぽつりと立っている。僕はクヌギの樹の上からそれを眺めている。声をかけたいと思うけれど、その樹はとても高くて、僕は降りることができない。

 目を覚ましてからすぐに机の引き出しを開ける。きらきらしたシールと、錠前と、どんぐりがそこにちゃんと存在している。
「夢じゃなかった」
 昨日の夕方、僕に不思議な錠前が届いた。ダイヤルを『1985』に合わせるとロックが開き、僕は違う世界に行った。吉永さんが僕と同じくらいの子供で、二十世紀に流行したお菓子が売っている世界。
 引き出しから錠前を取り出す。ダイヤルは『2013』になっている。今日は二〇一三年十一月八日だ。
「一九八五年だったのかな」
 サユが十歳だとして、吉永さんが今三十八歳ならば計算が合う。

「亨、起きてるの」
 母が僕を呼ぶ。キッチンから卵を焼く匂いがする。僕は錠前のダイヤルを回しかけて思い留まる。
「起きてるよ」
 引き出しを閉じてから、僕は自分の部屋を出た。

 放課後、僕はいつものように二百円の小遣いを貰い、ウエストポーチにシールと錠前を入れて家を出る。
 よしなが酒店はまだ誰もいなかった。公園にはまばらに子供の姿が見える。僕の友達はまだ来ていない。オーちゃんと登ったクヌギの樹は切り株になっていて、ジャングルジムはそこに存在しない。

 ウエストポーチから錠前を取り出す。
「この数字が多分年代で……」
 僕は慎重にダイヤルを回す。だけどどの数字に合わせてもロックは開かない。
「一九八五でしか開かないようになってるのかな」
 本来錠前とはそういうものだ。
 公園の片隅で周囲を見渡す。こちらを見ている子供はだれもいない。
「一九八五」
 数字を合わせると、錠前がかちりと開いた。目の前が光に満ち空間が裂ける。
 この光を見ると僕は自分の意思で動くことができなくなる。操られるように光の中へ。

「うわっ」
 地べたに落ちていたリカちゃん人形を、うっかり踏みつけてしまった。砂場で遊んでいた女の子がそれを見て泣き出す。
「ご、ごめんね」
 人形を拾いながら景色を確認する。クヌギの樹が砂場に木陰を作っていた。

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